新潟県燕(つばめ)市のキセルづくりの現場に行ってみた
世界的な金属加工の街として知られる新潟県・燕市は、キセルづくりの一大産地でもありました。キセルによる喫煙が下火になると製造量も下降したものの、この地では今も職人たちによるキセルづくりが行われています。
キセルの街だった新潟県・燕市

燕市におけるキセルづくりの歴史
新潟県のほぼ中央部に位置する燕市は、江戸時代から金物加工の街として栄えた地。当初は和釘(わくぎ)の生産が盛んに行われていましたが、外国産の洋釘(ようくぎ)の普及とともに仕事にあぶれた職人たちが、「ヤスリ」「キセル」「矢立て」「銅器」などの生産に転じます。
なかでもキセルづくりは、明治時代末頃から興隆を極め、日本一の生産量を誇りました。大正時代には金物プレス機が導入され、「プレス加工式キセル」の製造もはじまります。その勢いは昭和の中ごろまで続き、昭和4(1929)年には燕市人口の20%近くの人々がキセルづくりに従事し、最盛期には全国のキセル生産の80%を占めていたそうです。
燕市のキセル製造業が衰えを見せ始めたのは、昭和30年代後半〜40年代初めのこと。このころから手軽な紙巻たばこが普及し、キセルの需要は著しく減少していきます。キセル製造で培われた燕市の金属加工技術は、戦後の進駐軍向けから本格化した金属洋食器(カトラリー)製造を筆頭に、金属製ハウスウェアの製造などへ継承され、近年では”世界に誇る金属加工の街”として、その名が知られるようになりました。キセルの製造も小規模ながら続けられており、東京や大阪の問屋を通じて愛好家などの元へ供給されています。
現役の手作りキセル職人の元へ

日本でも数少ない手作りキセル工房を訪ねてみました。江戸時代から200年以上も続くキセルづくりの現場とはどのような雰囲気なのでしょうか。
現役の手作りキセル職人
燕市にある「飯塚金属株式会社」には、日本で唯一のキセル職人・飯塚昇さんが手作りキセルをつくり続けている工房があります。
昭和9(1934)年生まれの飯塚昇さんは、キセル職人だった父の姿を見て育ち、昭和25(1950)年に弟子入り。多数の手作りキセル職人が活躍していた当時の燕市で、工房の仲間4、5人とともに1日1,000〜1,500本のキセルづくりに励んでいたそうです。その後、キセル需要の減少もあって昭和45(1970)年ごろに転職するものの、定年を機にキセル職人としての仕事を再開し、現在まで手作りキセルを世に送り出しています。
作業道具は父の代から受け継いだもの
「飯塚金属株式会社」の工房には、飯塚昇さんの父から受け継いだ仕事道具が今も現役で活躍しています。金槌(かなづち)や心棒といった製作に欠かせない道具だけでなく、大きなヒノキの作業台も大事に使われているとか。そこで飯塚昇さんは日々キセルづくりに励み、手作りキセルの名品を月に20~25本のペースで製作しています。
ほとんどの作業を手仕事で行う
材料をハサミで「切る」、金槌さばきで「叩く」、ヤスリで「削る」といったすべての技術を使って手作りキセルを作り上げていく飯塚昇さん。工房に隣接するプレス加工式キセルの製造工場では、キセルの金属部分である雁首(がんくび)と吸口のみ機械で製造し、そのほかの工程はほとんど手作りで製造しています。
伝統あるキセルを残すために

約半世紀もの間、キセル職人として研鑽の日々を送り続ける飯塚昇さん。現在は、定年後に再びはじめたキセルづくりを楽しみながら取り組んでいるのだとか。伝統あるキセルづくりの魅力を広く知ってもらうため各地の展示会に参加したり、過去のキセル職人の名品を研究したりと、飽くなき向上心は年齢を感じさせません。
かつて日本一のキセルの生産量を誇り、現在は世界的な金属加工の街として知られる新潟県・燕市。この地には、キセルづくりの伝統の灯を絶やさないよう、今もなお名品を生み出し続ける職人の姿がありました。
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